【神話図鑑】古事記 人代篇 第25話
雄略天皇(後編)
皇族粛清で即位・春日の三重采女の歌問答・万葉集巻頭歌・古代最後の強権帝王
前編のおさらいと後編の概要
前編(第24話)では、雄略天皇が葛城山で一言主神と対面し、吉野の童女を見初め、赤猪子を80年待たせた話を紹介しました。今回の後編では、雄略天皇がいかにして皇位に就いたか(皇族粛清)、春日での三重采女との歌問答、そして万葉集巻頭を飾る求愛の歌を中心に紹介します。
雄略天皇は「古代最後の強権帝王」とも呼ばれます。実際の歴史においても5世紀後半に中国・朝鮮の史書に「倭王武(わおうぶ)」として記録が残り、広い支配圏を持った実在の大王でした。その人物像は荒々しい一面と優雅な歌人の一面を併せ持っています。
皇族粛清——血の即位
雄略天皇は安康天皇(第20代)が眉輪王(まゆわのおおきみ)に暗殺された後に即位しましたが、その道のりは多くの皇族の血を流すものでした。古事記はこれを淡々と記録しています。
安康天皇が眉輪王に殺されると、当時「大長谷王(おほはつせのみこ)」と呼ばれていた雄略天皇は強引に皇位を掌握した。その過程で複数の皇族を討ち取った:
古事記はこれらの事件を「天下をとるための当然の行為」として記述しており、雄略天皇を悪者として描いてはいない点が興味深い。
日本書紀では雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として記され、残虐な行為(無実の人を殺す等)が数多く記されています。一方、古事記では神々と対等に向き合い、歌を詠む「威厳ある帝王」として描かれます。同じ人物でも古事記と日本書紀でキャラクターが大きく異なる好例であり、古事記の編纂意図(天皇家の正統性を称える)が反映されていると考えられます。
春日の三重采女と歌問答
古事記下巻の雄略天皇段には、春日(奈良県)での采女(うねめ・宮中に仕える地方豪族の娘)との歌問答が記されています。蓮の花を頭に挿した采女が食事を持ってきた場面から始まる、優雅なエピソードです。
天皇が春日の水池(みいけ)の辺りで宴を催していた時、三重采女(みえのうねめ)が食事(酒と肴)を持ってきた。その際、三重采女は一本の一茎蓮(ひとくきはちす)の花を頭に挿していた。
天皇は「なぜ頭に蓮を挿しているのか」と怒り、「気を抜いているのか、失礼ではないか」と詰問した。三重采女は恐れ入り、答えとして歌を詠んだ。天皇が問い返し、三重采女がまた歌で答えた。このやりとりが続き、最終的に天皇は采女の機知ある返答に感じ入り、怒りを解いて褒美を与えた。
采女(歌で答える):「春日の池の蓮の花、それをうっかり摘んで挿してしまいました……」
この歌問答は古事記に詳細に記されており、天皇が怒りから一転して采女の歌の才を称える場面として印象的に描かれている。
采女は地方の有力豪族が宮中へ奉仕のために差し出した女性で、主に天皇や后の食事・身の回りの世話を担いました。美貌や才覚が求められ、天皇に気に入られることもありました。古代においては采女が天皇との歌問答に参加できるほどの教養を持つことが期待されており、三重采女の歌で答える場面はその教養の高さを示しています。
古事記の原文(三重采女との歌問答)
大和の国の 青垣の
春日の山の 枝向かひの
高き枝の 枝向かひの
なよ竹の 汝(な)の心は
だれにあるらむ
※「なよ竹(なよたけ)」は「しなやかな竹」の意で、采女(若い女性)にかかる枕詞的表現。「だれにある」は「緩んでいる・気が抜けている」という意。
大君の 命(みこと)畏(かしこ)みや
磯城島(しきしま)の 大和の国の
大和(やまと)の里に
さ野に 咲ける 花橘(はなたちばな)の
さ野は 知らで を
※意:天皇のお言葉をかたじけなく頂きながら、野に咲く花橘(蓮の花の意に換えて)のように、無意識にしてしまいました……という婉曲な詫び。
【天皇の歌】大和の国の青い垣・春日の山の、枝が向かい合う木々の中の、しなやかな竹のようなあなたの心は、今、だれているのか(気が緩んでいるのか)——
【三重采女の返歌】天皇の仰せをかたじけなく頂戴しながら、野に咲く橘の花のように、無意識のうちにしてしまいました……(故意ではございません)——
※三重采女の返歌は「故意でなく、気づかぬうちにしてしまった」という巧みな詫びです。直接謝るのではなく、自然の花に自分をなぞらえて無意識を表現する知性に、天皇が感じ入って怒りを解くという構造です。
宴(うたげ)と歌垣——古代の歌文化
古事記・万葉集の時代、「歌垣(うたがき)」とは男女が集まって歌を詠み交わし、恋を成就させる季節の祭りでした。春・秋の特定の日に、丘や水辺に集まり、歌で呼びかけ・応答することで恋の相手を見つける習俗です。
雄略天皇段には、天皇が宴や歌垣の場で歌を詠む場面が複数記されています。強権的な帝王が同時に優れた歌人でもあったことを古事記は記しており、これが万葉集の巻頭歌に繋がります。
万葉集巻頭歌:雄略天皇の求愛の歌
万葉集(全20巻・約4500首)の第1巻第1番の歌は、雄略天皇の作とされる歌です。「日本の歌の始まり」として万葉集の冒頭に置かれており、歌垣の場面での求愛の歌と解釈されています。
この岡に 菜摘ます児 家告(い)へ 名告(の)らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ
しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告らめ
家をも名をも
読み:こもよ みこもち ふくしもよ みふくしもち このをかに なつまします こ いへとへ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われこそは のらめ いへをも なをも
竹籠を持ち、美しい籠を持ち、掘り棒を持ち、美しい掘り棒を持って、この丘で菜を摘んでいるあなた——家はどこか、名前を教えてください。大和の国はことごとく私(天皇)が治めている。だから私はあなたに聞くことができる。私こそがあなたに告げましょう——私の家も、私の名前も。
※この歌は「名前を教えてください」という求愛の歌であり、最後に「自分の名も教えます」と呼応させる構造が巧みです。万葉集の編者はこの歌を巻頭に置くことで「日本歌の始まりは天皇の求愛から」という宣言をしました。
万葉集の編纂者(大伴家持ら)がこの歌を第一番に選んだ理由については諸説あります。「天皇が歌の始まり」という権威付けの意図、また「大和の国はことごとく我が治める」という歌詞が天皇の統治権を高らかに宣言しているためとも言われます。雄略天皇は実在証拠がある古代の天皇として、奈良時代の人々にも「歴史上の最初の強い天皇」として認識されていたのかもしれません。
考察:雄略天皇と古代王権の転換点
中国の史書「宋書」に「倭王武(わおうぶ)」として記録された人物が雄略天皇と同一とされています。473〜478年の記録で、「武は東西に征討し、毛人(東夷)55国、衆夷(西戎)66国を服属させた」と誇らしく述べる上表文が残ります。これは5世紀の倭(日本)王権の広がりを中国側から証明する重要な史料です。
雄略天皇の強権的な支配は古代ヤマト王権の一つの頂点でした。しかしその死後、後継者問題(男子後継者が少なかった)と皇族の弱体化が起き、清寧・顕宗・仁賢と続く「皇統の危機」の時代に入ります。雄略天皇は「古代最後の強い天皇」であり、その後は豪族・渡来人の影響が強まる時代となります。
古事記の雄略天皇は「神と対等に振る舞える聖なる帝王」「優れた歌人」として描かれます。一方日本書紀は「暴虐な行為が多い」「臣下を不当に殺す」という記述が目立ちます。この違いは、古事記(天皇家の内的記録)と日本書紀(公式の歴史書)の目的の違いを反映しています。
万葉集巻頭歌も、三重采女との歌問答も、赤猪子への哀悼の歌も——雄略天皇は古事記で最も多くの歌を詠む天皇の一人です。強権で知られながら、歌によって感情を伝え、赦し、詫びる——この人間的な側面が古事記の雄略天皇を最も魅力的な人物の一人にしています。
関連神社・史跡
| 神社・史跡名 | 所在地 | 雄略天皇との関係 |
|---|---|---|
| 春日大社 | 奈良県奈良市 | 春日山(御蓋山)の麓に鎮座する全国春日神社の総本社。雄略天皇が春日での行幸・宴を行ったとされる「春日」の地に位置する。三重采女の歌問答の舞台「春日の水池」はこの地方にあった |
| 大神神社(三輪明神) | 奈良県桜井市 | 赤猪子が天皇と出会った三輪山麓の神社。市辺押歯王(顕宗・仁賢天皇の父)が謀殺された事件とも近い地。雄略天皇の治世で最も重要な大和の古社 |
| 長谷寺(初瀬・大和長谷) | 奈良県桜井市 | 雄略天皇の諡号「大長谷(おほはつせ)」の「長谷(はつせ)」は現在の初瀬(奈良県桜井市)に由来。長谷寺はこの地の信仰を引き継ぐ古刹で、牡丹の寺として知られる |
| 百済王神社(くだらおうじんじゃ) | 大阪府枚方市 | 雄略天皇代に百済から多くの渡来人・技術者が来日しており、大和・河内の産業発展に貢献した。百済王の子孫を祀る神社で、5世紀の日韓関係の歴史を伝える |
| 古市古墳群(世界文化遺産) | 大阪府羽曳野市・藤井寺市 | 雄略天皇陵を含む4〜5世紀の大型古墳群。2019年のユネスコ世界文化遺産登録の一部。ヤマト王権最盛期の陵墓が集中する地域 |

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